「地理上の発見」によって、ヨーロッパの海商圏は地中海や北海から、大西洋そして太平洋
へ転換する。その先発者はポルトガル、スペインであったが、封建的な消費国にとどまり、資
本主義の発達が早かった最後の海商国オランダ、次いで世界の工業国となったイギリスが、
世界市場を大きく支配するようになる。地球的な規模で海商が行われる過程は、「アメリカにお
ける金銀産地の発見、原住民の絶滅と奴隷化と鉱山への埋没、東インドの征服と略奪の開
始、アフリカの商業的黒人狩猟場への転化、これらが資本主義的生産時代の暁光」(マルク
ス)と特徴づけられるものであった。
1 東方物産の直接取引を
★金銀・香料への渇望★
15−16世紀は「地理上の発見」の時代、冒険と探険の時代あるいは大航海時代と呼ば
れ、夢とロマンをかきたてる。特に、日本人はそうした決定的な歴史を持たないだけに、心をゆ
すぶられる(シルク・ロードがもてはやされるのも、その一環である)。それが、世界史に新しい
時代を切り拓くことになったことは、いくら評価して余りあるが、その動機、その経過、その結果
はすさまじいものがある。
すでにのべたように、ヨーロッパ諸国には十字軍以来、キリスト教徒の聖地や土地をイスラ
ム教徒から回復し、異教徒を改宗させて新しい領土を拡張しようとする、宗教がらみの政治的
な運動があった。それには、東方の物産のある土地に行って取引� �、さらにそれを独占して大
きな富を獲得したいという商人や支配層の欲望とが一体となっていた。その最たるものが金と
香辛料であった。それを東地中海諸国やイタリアを経由せずに、その産地と直接取引したいと
いう意欲ははかりしれないものがあった。たとえば、ジェノバの商人マルコ・ポーロ(1254−1
324年)の東方見聞録もそのあらわれであった。
中世、現在のスペイン、ポルトガルは国土の大半をアラブ人に占領され、長期にわたって国
土回復<レコンキスタ>運動をつづけていた。13世紀中頃、アラブ支配を崩壊させる。この熱
烈なキリスト教徒が、次に目指したものは何か。それは、アフリカのエチオピアには聖ヨハネの
盃をいただくキリスト教国(プレスター・ジョンの国)� �あると考えられていたので、それと協力し
てアラブをたたくことであった。他方、14世紀、東地中海諸国はオスマン・トルコに支配された
ため、東方物産の海陸通商路は危険と不安にさらされ、その供給も安定を欠き、その価格も
騰貴しがちであった。なかでも、イタリアの後塵を拝してきた西地中海諸国は、新ルートを自ら
開拓せざるをえなくなった。こうした新たな国土回復と東方物産の入手という要求が、地中海
海商の枠を破ぶることになる。
★インド航路の発見★
ポルトガルの数代国王、なかでもエンリケ航海王子(1394−1460年)は、体が弱く、船酔
いするので、乗船しない航海王であったが、ベネチアに押しまくられていたジェノバやピサなど
の、一旗上げたい航 海者、造船技師、地理天文学者を集め、航海学校を建て(伝記作家がそ
う持ち上げたとされる)、数かずの探険航海を組織した。それがまず目指したのは、黄金や象
牙を産出するガーナ、ギニアであった。1431年アゾレス諸島を探険し、1433年ヨーロッパ人
にとってその先はないとされていたボジャドル岬を回ることに成功する。1445年ヴェルデ岬を
越えて、海岸線の探険が進むと、黄金、象牙、そして奴隷の貿易がたちまち盛んとなった。14
81年ジョアン2世(在位1481−95年)が即位する頃には、インド航路の発見が目標となり、1
488年バルトロメ・ディアス(1450?−1500年)が喜望峰にたどり着く。
1497年7月、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469?−1524年)は国� ��との最後の会見を終え、礼拝堂
で成功を祈願して、賑々しくリスボンを出帆する。ガマは、旗艦サン・ガブリエル号250トンに乗
り、弟パウロがサン・ラファエル号100トンを指揮していた。その他、バリオ号(カラベル型)10
0トンと食糧補給船400トンを率いていた。乗組員は全部で170人であり、そのなかには囚人
も含まれていた(危険がわかっていたので、そうした連中を加えていた。他の遠征もほぼ同
じ)。乗組員が壊血病で苦しみ始めたが、96日目になってセント・ヘレナ湾に入って上陸でき
る。そこで、健康を回復させ、プッシュマンやホッテントットをからかった後、同年11月喜望峰
を回る。そこで、補給船を壊して北上するが、乗組員は壊血病で死に始める。モザンビークや
モンバサでは食糧補給ができたものの、地元民とトラブルを起し、殺傷の報復をする。マリンデ
ィでは友好に努め、アラブ人の水先案内人を手に入れ、そのおかげで23日でインド洋を横断
する。1498年5月カリカット(現在のコジコーデ)に到着し、長年の夢が実現する。
ガマが持ってきた贈物や商品はみすぼらしいもので、国王に相手にされなかったが、貴族を人
質に取ったりして、ようやく貿易協定を結ぶ。1498年8月出帆、モガディシオに着くまでに3か
月もかかり乗組員30人が死ぬ。途中、要員不足のため、サン・ラファエル号を破却する。149
9年7月リスボンに、ベリア号、少し遅れてサン・ガブリエル号も帰着した。その時、壊血病で乗
組員は3分の1に減っていた。ガマも� �っていなかった。瀕死の弟を救うため、快速のカラベル
を雇って連れ戻そうと、ヴェルデ岬諸島で下船していたのである。それも空しく弟はアゾレス諸
島で死んでしまった。
こうした悲惨な航海の末、東方物産の直接貿易航路が開かれることになる。1517年には、
早くも中国の広東(カントン)に入港している。ポルトガルは、ゴア、セイロン、マラッカ、マカオ、
東南アジアの各地に植民地や商館を築き、その後ほぼ100年にわたって東洋貿易を独占す
るようになる。
2 新大陸の発見と世界周航
★コロンブスの航海★